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意外と分かりづらい、江戸時代の貨幣制度

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投稿経済史入門
歴史の教科書を読んだだけでは割りにくい、江戸時代の貨幣制度について、説明します。
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概要

 江戸時代の貨幣と言えば、時代劇に出てくるような「大判」「小判」などを思い浮かべると思います。

 しかし、それらだけを見ていては、江戸時代の貨幣制度は理解できません。

 現在の日本では、紙幣・硬貨を含めて「円」が貨幣ですが、その認識のまま、「大判」「小判」を捉えたり、江戸時代の貨幣制度を勉強しても、決して理解することはできないでしょう。

 そこで、江戸時代の貨幣制度について、整理したいと思います。

江戸時代の貨幣制度

 一般的に、江戸時代の貨幣制度は、三貨制度と呼ばれる仕組みで運用されていました。
 三貨とは、金貨・銀貨・銅貨の3つで、これらが流通していたとされています。

 ただ、金貨・銀貨・銅貨を、現在の1円玉・100円玉・1000円札・10000円札のように考えると、少し違います。また実際は、これらの他に貨幣的なものとして、「米」「藩札」がありました。
 つまり、江戸時代には、5つの貨幣的なものがあったということです。

  ・金貨
  ・銀貨
  ・銅貨
  ・米
  ・藩札

 これらを1つずつ説明していきましょう。

金貨

 江戸時代の貨幣として、一般的に思い浮かぶ「大判」「小判」は、この金貨です。
 重さは一定で枚数で計算されます(「計数貨幣」)。そして、「1両=4分=16朱」といったように、四進法で計算されていました。
 ただ、ここでややこしいのが、その流通範囲が東日本だったということです。

銀貨

 銀貨は、丁銀・豆板銀などのことです。
 ただ、金貨とは異なり、その重さで計算される「秤量貨幣」でした。天秤で計るのですが、いちいち計るのはたいへんなので、紙に包まれ、その紙に金額が書かれたものも用いられました(ただ、一部、計数貨幣の銀貨も発行されたりもしています)。計算方法も金貨と異なり、「1貫=1000匁」「1匁=10分=100厘」といったように、10進法が用いられていました。
 流通範囲としては、金とは異なり、西日本や日本海沿岸が中心でした(このため、「東の金遣い、西の銀遣い」という言葉もあります)。

銅貨

 銅貨は、1個が1文の計数貨幣で、全国的にも流通しました。

 貨幣ではありませんが、江戸時代において、貨幣的なものとして重要なのが米です。
 なぜならば、年貢(税収)は米で納め、武士の俸禄(給料)は米で支払われていたからです。米の値段により、税収や給料が変わってくるという状況だったと言えます。

 徳川吉宗の享保の改革は、幕府の財政再建が1つの目的だったとされます。言い換えれば、いかに幕府の借金をどうするかを考えたといえるでしょう。

 ただこれでは、享保の改革の意味をミスリードしてしまいます。
 新田開発などが行われ、多くの米が作られた結果、徳川吉宗の時代になると、米価の下落が生じていました。つまり、借金は勿論ですが、米価下落で実質的には税収も減ってしまっていたということです。逆に、米以外の値段は上昇していたため、一層大変です。
 現代的な感覚で、米を中心に考えれば、全国各地で100円玉が作られるようになり、100円玉の価値が下落し、税収や給料も実質的には下落したといったところでしょうか。
 そのため、徳川吉宗は米対策を重視し、「米将軍」と言われたりしました。

藩札

 貨幣は政府だけが作るものとは限りません。
 江戸時代は、「藩札」という形で、幕府の許可制でしたが、藩も紙幣を発行していました。現在の経済用語でいえば、無兌換紙幣です。

まとめ

 以上から、江戸時代の貨幣制度についてまとめると、現在と比べると、次のようになります。

現在江戸時代
貨幣硬貨・紙幣(「円」)貨幣的なものを含めると、金貨・銀貨・銅貨・米・藩札
貨幣供給日本銀行幕府(政府)だけではなく、米や藩札は、幕府とは違った主体が供給
相対的価値1円・100円・10000円といった価値の間で変動はない三貨制度において、それぞれ金・銀・銅をベースにしており、相対的な価値の変動があった。例えば、改鋳などで金貨を増やせば、銅貨の価値が上がるなどの現象があった。
税収
流通範囲全国銅貨・米は全国的だったが、「東の金遣い、西の銀遣い」や藩札のように、地域性があった

 このように、現在とは異なる仕組みで、あまり教科書にも書かれていないので、このあたりをしっかりと把握して、江戸時代の仕組みを理解する必要があります。

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