背景
敗戦後、アメリカの援助で復興が進められてきましたが、冷戦激化とともに、アメリカの対日政策の転換が行われることになりました。そして、日本の国際社会への復帰に向けて、日本の自立化が焦点となりました。
そこで、1948年5月に、ヤングを団長とする調査団を日本に派遣、更に10月には、次のような「経済安定9原則」を決定しました。
①総予算の均衡
②徴税の強化
③貸出増加の制限
④賃金安定
⑤物価統制の強化
⑥貿易と為替の統制強化
⑦輸出向け資材配給制度の効率化
⑧国産原料・製品の増産
⑨食料統制の効率化
この原則を達成すべく、1949年2月にデトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジが公使兼財政顧問として、日本に派遣されることになりました。
ドッジ・ライン
来日したドッジは、記者会見で、次のような発言を行いました。
「日本政府は、政府の補助金と米国からの経済援助という2本の竹馬の足に乗っており、早く竹馬を外さなければならない。
あまり足を高くすると、転んで首の骨を折るおそれがある」
すなわち、日本経済は、政府の補助金と米国の援助に支えられており、そのような上げ底の経済をやめて、自立化を果たす必要であることを述べたわけです。
超均衡予算
ドッジは、すでに成立していた1949年度予算にも介入し、次のようなことを実施しました。
・1949年度予算を一般会計収支で均衡させ、特別会計についても均衡を求める
・価格差補給金・輸出入補助金などの一切の補助金の廃止
・復興金融公庫の新規融資の全面停止、復興金融債の償還開始 など
このような措置を行うことで、甘い予算制約を中止し、身の丈にあった政府支出・経済の自立化を求めました。
対日援助改革
従来、アメリカの対日援助にあたっては、ガリオア(占領地域救済政府資金)とエロア(占領地域経済復興資金)の2つ資金で行われ、援助物資の売上代金は、貿易資金特別会計で処理、そこに輸入補助金が支出されていました。
これに対し、1949年4月にGHQは日本政府に対して、日本銀行に対日援助見返り資金の口座設置、米国援助に相当する金額の円建て預金を命じました。そして、この預金の使用にはGHQの許可が必要とされ、復金償還債やGHQの認めた公共事業などに支出することとされました。
これは援助の削減などを意味はしてませんでしたが、従来とは異なり日銀の追加的な資金供給を制限し、対日援助に制約を課しすことになりました。
単一為替レートの設定
占領下の日本では、円=ドル為替レートについて、製品別の異なる複数の為替レートが存在していました。
そして、当時の貿易は、日本政府が民間企業から買い上げ、それを米軍が介在し、アメリカで販売されるという方式がとられていました。この結果、このような取引で行われた価格と実際の価格との乖離があり、これが隠れた輸出補助金ともなっていました。
このようなことから、ドッジは、1949年3月に1ドル=330円という案を本国に提出、その後調整が行われ、1949年4月から1ドル=360円という単一為替レートが実施されることになりました。
ドッジ・ラインの効果
このようなドッジ・ラインにより、次の効果がもたらされたとされています。
1つは、インフレーションの収束です。
傾斜生産方式・復金融資を通じたインフレ要因が除去され、1949年にはインフレーションの収束に成功したとされます(ただ、それ以前からインフレは終息傾向を示していたという話もあります)。
2つは、デフレーションの深刻さです。
1949年にはインフレの収束はできましたが、逆に超均衡予算などが実施される中、デフレが深刻になりました。このような緊縮財政の中、日本銀行は金融緩和策をとりましたが、朝鮮戦争による特需を迎えるまで、デフレが続くことになります。
3つは、企業の合理化です。
(隠れた補助金も含め)補助金などに支えらえていた日本経済にあって、これらが中止され、デフレが深刻になる中、企業は厳しい予算制約の中で経営の合理化を行うことが求められることになりました。同時にGHQも配当制限・人員削減・料金抑制などを誘導し、間接的・直接的に企業経営の合理化をすすめました。
参考
浜野潔・井奥成彦・中村宗悦・岸田真・永江雅和・牛島利明『日本経済史1600-2015 歴史に読む現代』
橋本寿朗・長谷川信・宮島英昭・齊藤直『現代日本経済』
櫻井宏二郎『日本経済論 史実と経済学で学ぶ』