1930年代初期の昭和恐慌下にある中、高橋是清が蔵相として就任し、不況を脱するため、いわゆる「高橋財政」という積極財政を行っていました。
そしてこの政策がうまくいき、デフレを脱しつつある中、高橋是清は1934年度より、財政支出の拡大を抑制するような方針に変わっていきます。
しかしこのような中、二・二六事件で、高橋是清が殺害されると、内閣は岡田内閣から広田内閣となり、蔵相も馬場鍈一に代わりました。馬場鍈一は、元々は大蔵省の官僚で、その後、日本勧業銀行総裁に就任するなど、その経歴・手腕が期待されての人事だったのでしょう。
そしてこの馬場蔵相によって行われたのが、「馬場財政」になります。
【財政膨張】
末期の高橋財政にあっては、財政支出を抑制し、公債漸減主義をとっており、特に軍部からの軍事費増額に対して、毅然とその要求に対抗していました。
しかし、馬場財政となり、拡張する軍備費について、赤字国債の増発と増税で捻出し、低金利政策を推し進め、三分半利債への低利借換により政府の財政負担を軽減しました。
これにより、一般会計予算は、1936年度の23億7200万円から、1937年度には29億1400万円と、23%も増額となりました。通貨流通量も増加し、インフレ率は12%強に達したとされます。
このように、馬場財政においては、軍部の要求に屈し、大きな財政膨張を招くことになりました。このような財政膨張は、その後、常態化していくことになります。
【国際収支の悪化】
当時の日本においては、軍事物資を完全に自給できるような状況ではなく、部品の多くは欧米から輸入しており、屑鉄や石油はアメリカからの輸入に頼っていました。
このような中、馬場財政が行われたことで、物価高騰や為替下落を見込み、輸入の増加を招き、国際収支を悪化させる結果にもなりました。
ここで政府は、見込み輸入の防止を目的に、1937年1月に輸入為替管理令を施行し、輸入の許可制へと踏み込みました。
また、為替決済金補充のため、金の海外現送を再開し、結果、満州事変後に備蓄していた金のほとんどである3.4億円を失ったとされます。
馬場財政は、「腹切り問答」で広田内閣が1937年2月に総辞職すると同時に、馬場蔵相も交代となり、馬場財政は終わりを迎えることになりました。
参考
杉山伸也『日本経済史 近世‐現代』
浜野潔・井奥成彦・中村宗悦・岸田真・永江雅和・牛島利明『日本経済史1600-2015 歴史に読む現代』