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今治タオルの歴史について

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投稿地域経済学初級
愛媛県今治市の地場産業である今治タオルの歴史について、説明しています。
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はじめに

 愛媛県今治市といったとき、どのようなものを思い浮かべるでしょうか。

  「バリィさん」「焼き鳥」「造船業」 など

 いくつかのものが思いつくでしょうが、地場産業として有名なのが、「タオル」でしょう。

 日本一のタオルの産地として知られ、現在では、ちょっと高級なタオルといった印象もあります。



今治タオル

 この今治タオルがどのように発展してきたのか、今治タオルの歴史について、述べたいと思います。

 なお現在、「今治タオル」を名乗るには、品質基準があり、今治におけるタオル生産と今治タオルではちょっとニュアンスが違うので、ご注意ください。

   今治タオル工業組合「今治タオルブランド商品の品質基準

今治タオルの歴史

 今治タオルの歴史を考える上で、次のような段階があると考えられます。

  ・背景(基盤) : 江戸時代~1880年代
  ・生産開始期  : 1890年代
  ・高度化期   : 1900年代~1950年代
  ・トップ産地期 : 1960年代~1980年代
  ・衰退期    : 1990年代
  ・ブランド化期 :2000年代~現在

 以下では、このような段階に基づき、説明していきたいと思います。

背景(白木綿・伊予ネル)

 今治でのタオル生産の歴史を述べる前に、江戸時代から、現在の今治タオルにつながる素地が今治にありました。
 
 蒼社川の綺麗な軟水が、綿の洗浄と染色に適していたとされ、江戸時代の享保年間(1716~1735年)から、今治で白木綿(しろもめん)の生産が開始されたとされます。
 その後、大坂に出荷されるなど、生産は拡大し、幕末の天保14~嘉永6年(1843~1853年)には、年間生産高は30万反に上ったとされます。

 しかし、明治時代になると、他産地が輸入綿糸の利用や高機・バッタンの採用などを行い価格競争力を持つ中、今治の白木綿は販売不振に陥ることになります。
 この危機の中、酒造業などを営んでいた矢野七三郎が本業を弟に譲り、今治の製綿業の近代化を図ろうと志します。矢野は、1885年(明治18年)に和歌山に赴き、当時最先端であった紀州ネルを学びに行きました。
 和歌山で技術を学ぶ中、矢野は新たな「伊予ネル」を生み出すことに成功しました。紀州ネルは両面に起毛しており、後染めだったのに対して、伊予ネルは起毛が片面だけで、先染めを特徴としています。

 翌年に、矢野は今治に戻り、興業舎を立ち上げ、伊予ネル(綿ネル)の生産を開始します。この結果、今治にとって、白木綿に代わり、伊予ネルの生産が拡大していくことになります。

タオル生産開始

 このような中、綿ネルの生産に携わっていた阿部平助が、大阪で偶々、1枚のタオルに出会うことになります。
 このタオルに触発され、1894年(明治27年)に、阿部は、綿ネルの改造手織り機械4台で、タオルの生産をスタートさせます。

 これが、今治タオル生産の起源とされています。

高度化

 1910年(明治43年)には、麓常三郎が二挺筬バッタン機械を考案し、タオルの生産が増加することになります。
 更に、1912年(明治45年)には、中村忠左衛門が先晒色タオルの生産を始めると、売り行きが好調で、今治でタオル生産業者が増加したとされます。

 これらにより、今治はタオルの産地となり、三大タオル産地(大阪の後晒タオル、三重の撚糸タオル、今治の先晒タオル)の一角を担うまで、成長します。

 そして、第一次世界大戦時の好景気の中、力織機が普及したこともあり、その頃には、今治でのタオル生産額は、三重県を抜き、トップの大阪に次いで、日本で2位の生産額となりました。

 1922年(大正11年)には、愛媛県立工業講習所の菅原利鑅がジャカード機を応用し、ジャカード機による先晒製法が開発され、タオルに複雑な文様を織り込むことに成功しました。

日本一の産地

 昭和恐慌や戦時統制、第二次世界大戦時の今治への空襲など、苦難の時期もありましたが、第二次世界大戦後、衣料不足の中で、今治のタオル産業は見事に復興し、「ガチャ万景気」という好景気を迎えます。なお、ガチャとはタオル織機の機械音のことで、ガチャという音を鳴らせばものすごく儲かるという意味です。

 その後、最新鋭の広幅ジャカードが普及し、高度成長下で、新商品のタオルケットブームに乗り、輸出も拡大、1960年(昭和35年)には、大阪を抜き、日本一の産地となります。

衰退

 1990年代に入ると、タオルの国内消費が低迷し、中国からの安価なタオルの輸入が増え、他のタオル産地と共に、今治のタオル産業は大きなダメージを受けます。

 ピークを迎えた1990年には年間5万456tの生産高がありましたが、その10年後の2000年には年間2万t台に落ち込み、生産高はおおよそ半減してしまいました。

 このような危機の中、2001年には他のタオル産地と共に、国に対してセーフガードの発動を依頼しましたが、3年の調査の末、セーフガード発動は見送られました。

 地域としても、四国タオル工業組合(現:今治タオル工業組合)で、2001年8月に、タオル業界構造改善ビジョン「アクションプラン」を作成しましたが、資金などの面から頓挫してしまいます。

ブランド化

 産地が大きな危機にある中、2006年に、四国タオル工業組合・市役所・商工会議所が連携をとりながら、産地が一丸となって取り組む「今治タオルプロジェクト」をスタートさせ、現在に至っています。

 産地としては、以前として厳しい状況が続いていますが、このプロジェクトにより、「今治タオル」というブランドが確立され、一定の成果を上げているとされます。

参考

  松原宏『地域経済論入門
  内田九州男・川岡勉・矢野達雄・寺内浩『愛媛県の歴史
  武智利博・寺内浩・内田九州男編著『愛媛県謎解き散歩
  今治地域地場産業振興センター「今治タオル
  imabari towel「imabari towel
  藤高タオル「今治タオルのルーツをたどる
  Nakachu「HISTORY

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