はじめに
明治新政府になり、新たな財政・経済政策を行う必要が出てくる中、行われたのが、由利公正による「由利財政」です。
由利公正は元々は福井藩士の1人でしたが、福井藩主・松平春嶽に抜擢され、財政改革・殖産興業政策を行い福井藩の財政再建を果たし、松平春嶽の側用人として活躍。新政府でも、その手腕を買われ、新政府成立直後の財政政策を担当することになりました。
由利公正
由利財政
課題
新政府にとっての課題は、当時継続されていた戊辰戦争の戦費や行政経費の調達にありました。
新政府と言っても、廃藩置県は後のことで、当時は各藩が徴税権と軍事権をもっており、新政府が統治していたのは、名目石高3000両のうち、旧幕府領の800両のみでした。
すなわち、多額の財政支出が必要な中、その財源が限られている点に問題がありました。
政策
由利公正の政策は、幕末の福井藩で成功した産物会所方式による財政改革を、全国的規模で実施しようとしたものとされます。
三井組・小野組・島田組・鴻池など上方商人から、「会計基立金」として、300万両を借入・調達し、不換紙幣である「太政官札」(金札)を発行し、それを藩や民間に貸し付けて、殖産興業を実施しようというものです。
なお、太政官札は、当初は2400万両、最終的には4800万両発行されたとされます。
藩に対しては、1万石当たり1万両の太政官札を貸し付け、年賦1割、13年賦で返済させることにしました。
民間に対しては、収税や勧商の組織として「商法司」を設立し、三都市を中心として、大量に発行した太政官札を勧業資金として貸し付けて、殖産興業を計ろうとしました。
結果
調達した資金の多くが戊辰戦争で使われ、大量に発行したため、太政官札の信用は著しく落ちることになりました。
明治新政府による不換紙幣であり、当時流通していた金貨は退蔵され、諸藩の贋金問題も絡み、グレシャム法則のように、贋金と太政官札が横行し、インフレが発生、通貨制度は混乱に陥りました。
そうして、欧米諸国や国内の開明派から批判を受け、明治2年2月に、由利公正は辞任し、由利財政は終了、その後の大隈財政へと引き継がれることになりました。
参考
杉山伸也『日本経済史 近世‐現代』
落合功『入門 日本金融史』